開発ノート
サンプルに頼らない音
録音を同梱せず、再生しながらすべての楽器を合成している理由について。
2026年9月19日
ベンドの問題
多くの記譜ソフトは、サンプル音源で譜面を鳴らします。誰かが1音ずつ録音したギターの音があり、再生時には最も近い録音を選んでピッチを合わせます。伸ばした音ならこれでうまくいきますが、ギタリストが実際に譜面に書くことの大半ではうまくいきません。
サンプル再生でのベンドは、録音のピッチを横滑りさせているだけです。弦が張られるわけではないので倍音は実物のようには動かず、すでに鳴り終えたアタックまでピッチごと引きずられます。ブリッジミュートは「短い音」ではなく「小さい音」になりがちで、デッドノートも打撃音ではなく単に小さな音になります。記譜には「どの音か」だけでなく「どう弾くか」の指示が詰まっているのに、サンプル再生で反映できるのは前者だけです。
この差を埋めるために、Tonographは自前の音声エンジンを持っています。
弦の音を合成する
Tonographはサンプルライブラリを持ちません。すべての楽器は、譜面を再生しながら合成しています。
弦は物理モデルで合成しています。はじかれた弦は1度だけ励起され、あとは実物と同じように、高い倍音ほど基音より速く減衰していきます。ベンドは振動する弦の長さそのものを変えるので、アタックを移調した複製ではなく、倍音が正しい位置に並んだまま目的の音程に到達します。
奏法は、合成した音にあとから掛ける効果ではなく、合成そのものに組み込まれています。ブリッジミュートで減衰が短くなるのは、実際に手が弦を押さえて振動を抑えるからです。デッドノートは同じ励起でも、共鳴するものがほとんど残らない状態です。ハーモニクスはスペクトルを細くします。スラップ・ポップ・タップは弦の叩き方が違うので、音の立ち上がりの形から変わります。エンジンが受け取るのは「どの高さの音を鳴らすか」ではなく「譜面に何が書いてあるか」です。
こうして生まれた音は、自分で並べたペダルを通って鳴ります。本当に実現したかったのはこれでした。いま書いたフレーズを、「クリーンギター」という名前のパッチではなく、自分の信号チェーンを通した音で聴けることです。
引き換えにしているもの
正直に言えば、音色のリアルさと引き換えに、奏法どおりに振る舞うことを選んでいます。
何段階ものベロシティで1音ずつ録音されたコンサートグランドは、その場で合成したどんな音よりもコンサートグランドらしく鳴ります。仕事でその音が必要なら、サンプルベースのソフトのほうが適しています。このトレードオフがないかのように装うより、はっきり書いておきます。
その代わりに得られるものは、このアプリが想定している使い方には十分見合うものです。
- ダウンロードするものがない。インストールした時点ですべて揃っています。サンプルパックも、ダウンロードの管理も、新しいマシンでの再セットアップも要りません。
- オフラインでも動き続ける。取得するものがないので、ネットワークにつながらなくても止まりません。
- どんな音も鳴らせる。ライブラリで鳴らせるのは、誰かが時間をかけて録音した音だけです。合成なら楽器そのものを扱えます。
自分たちに課した基準
同梱しているサンプル譜面はこのアプリのために書き下ろしたもので、そこで鳴っている音はすべてこのエンジンが鳴らしています。ライブラリもプラグインも、あとから加えた処理もありません。このサイトで聴ける音源もアプリ自身の出力で、インストールすれば手元に入るのと同じファイルから書き出しています。
これを基準にしました。デモを作れないエンジンは、製品として出せるエンジンでもないと考えたからです。